私の投稿から1週間が過ぎたが、反論が来ない。明治学院の教授や、立命館の講師など、名指しで批判した人もいるのだが、それも梨のつぶてである。週明けくらいには、何か掲載されているだろうか。

それとは別に、掛谷英紀氏の投稿が掲載された。全体の趣旨は納得できるのだが、文中の「後ろめたさ」ということをどう解釈すればよいのか、その意味が今1つ絞りきれない。気になっているのは、この語に「やましさ」とか「罪悪感」のようなニュアンスが込められているか否かである。

ただし「常に訂正可能性に対して開かれていること」と解釈するのだれば、まったくその通りだと思う。「我こそが『真理』を握っている」という独善性ほど危険なものはないからである。


これが正解なのだろう。保守派からは「参拝せよ」という声が強く上がるだろうし、心情的にはそれは理解できる。ただし問題は中国なのだ。

といっても、もちろん「中国が文句を言うから参拝はやめておけ」というのではない。そうではなくて、むしろ中国の現政権はこの問題を終わりにしたいのだ。それを終わらせまいとするのが、人民解放軍と、日本の左翼マスコミという構図になっている。

北京政府にとってもとも重要な課題は何かといえば、経済である。端的にいえば、13億とも15億ともいわれる中国国民を「食わせる」ことである。そのためには日本からの投資と、技術の導入が不可欠だ。それに比べれば、実質的には1文の得にもならない「靖国問題」など、どうでもいい。

問題は面子(メンツ)である。それも対外的な面子ではなく、対内的なものだ。中国では天安門事件で共産党独裁が揺らいだあと、その立て直しに必死だった。共産党政権の正当性を強く宣伝(国内向きに)しなければならない。「反日」はそのための有効なツールであった。

ところが今は、この「反日」を強くいうと、日本からの投資が滞る状況になっている。

ちなみにこれは、日本の関西方面の経済界が賢明だったからでもある。東京の財界人は安易に北京に尻尾を振ったが、関西はそのような選択をしなかった。関西の経済界の方が中国への依存度が高いにも関わらず、である。

だからといって、約10年も続けてきた「反日」をそう簡単に引っ込めることは出来ない。それをやれば非難が集中して失脚するだろう。日本の左翼や右翼もそうであるように、「強硬発言をする者が偉い」というムードに支配されているからだ。

そのため、日本との関係が大事だと思っていても、それを口にすることは出来ない。しかし日本の側から見れば、そういう人物ほど、失脚させてはならない人材だということになる。

もし首相が靖国参拝をすればどうなるか。朝日や毎日がよろこび競って中国要人のコメントを取りに行く。そうなれば取材を受けた側は日本を批判せざるを得ない。それを日本の左翼マスコミが針小棒大に書きたてる。毎度お馴染みの構図である。

首相が靖国参拝について明言を避けているのは、中国からの日本への批判を避けるためというより、日本の左翼マスコミが中国要人を追い詰めないようにするためだと考えたほうがいい。安倍首相のこの選択によって、誰よりも救われているのは、日本との関係を修復したいと願いつつそれを明言できない中国要人なのだ。

(※だからもし朝日や毎日に少しでも反中国的な記述があり、それを北京に「ご注進」してやる者がいれば、朝日や毎日があちらで何らかの取材制限を受けることになる可能性もあるのではないかという気がする)

単に中国からの批判を避けたいのであれば「参拝しない」と明言すれば済む話である。しかしそれならそれで、日本の左翼マスコミと中国の強硬派が「成果をあげた」と調子付く。だから、それもしない。となれば、おそらくはこれが最善の選択なのである。

もっとも「外交問題になっているから」というより「中国の国内問題になっているから」というのが、理由としては正確であろう。

政府は20日午前の閣議で、靖国神社の合祀(ごうし)対象者の決定に関し「決定は靖国神社が行っているものであり、これに旧厚生省が関与したということはない」とする答弁書を決定した。

「関与」なんて抽象的な表現を使っているから、自体が収束せずに屁理屈をこねる余地を作ってしまう。これは政治家の悪癖の1つだと思う。

問題は、「政教分離」の原則に触れる事実の有無ということであり、結論からいえば、「それは確認されていない」という他ない。

靖国神社はその性格上、戦死その他、国のために尽くして倒れた人を祭る。しかし、戦後に宗教法人化した靖国神社が、独力で戦死者を把握することはできない。したがって国に資料の提供を請求することは当然である。

戦犯として刑死した人物を「法務死」として戦死と同様に扱うということは、戦後に国民の総意で決まったことであり、「それならその資料もよこせ」というのもまた当然の話だ。ここで重要なことは、

1.国から靖国神社への「命令」があったかどうか。
2.靖国神社の教義を前提とした政治決定があったかどうか。

ということであり、それ以外は「政教分離」の原則に触れない。このことを確認しておかないと、いかなる形の関与も「政教分離」違反とイコールとみなすような屁理屈が出てくる。

厚生省(当時)から靖国神社に提供されたのは、あくまでも「データ」に過ぎない。具体的には戦死者のリストと、おそらくは若干の政治情勢の説明であろう。

提供された「データ」を前提として、いつ誰を祭るかの検討・決定は、あくまでも靖国神社が行ない、これについては国は関知していない。

また、靖国神社に祭られたか否かで、国家の決定(たとえば遺族年金の有無など)が判断されたという事実も無い。

横浜 デリバリーヘルス 新潟 デリバリーヘルス 神戸 デリバリーヘルス 熊本 デリバリーヘルス 京都 デリバリーヘルス  広島 デリバリーヘルス 鶯谷 デリバリーヘルス 岡山 デリバリーヘルス  したがって、現在判明している限りにおいては、「政教分離」に反すると認められる事実はない。

日本では「政教分離」という言葉が一人歩きして、その本当の意味が理解されていないと思うんですね。だから「とにかく国が悪い!」といえるような解釈をひねり出して、「言葉では何とでも言える」みたいな風潮が絶えないのだと思います。

だけど元をただせばこれはとても簡単なことで、まず宗教の教義を政治決定の前提におかないということ。これは何かというと、かつてヨーロッパでカトリックとプロテスタントが争って殺しあった名残なんですね(^^;)。

異なる宗教が混在する社会で、特定の宗教の教義を前提に使用とすると、必ず他の宗教の信者から異論が出る。当たり前ですね(笑)。それぞれがまったく異なった前提からの主張をすると、これは必ず水掛け論になって、絶対に話がつきません。だから宗教を政治から切り離したわけです。

もうひとつは、そうである以上、国(や法律など)が宗教の在りようを決めてはいけない。「宗教の在りよう」とは、具体的には教義とか、何を神聖視するとか、そういうことです。政治的な理由でそういうものに介入してはいけない。

これは当然、信教の自由とセットになっていて、どんな宗教を信じるか(信じないか)は、社会のメンバーシップとは無関係であるということです。それはいわば「趣味」の領域の問題とする。たとえば「切手のコレクター」も「古銭のコレクター」も、国民としては対等ですね。それと同じようにカトリック信者も新教徒も、その信仰と関係なく、社会の成員として対等とする。そうである以上、全員が守るべき法律を、どれか特定の教義を前提として作ってはならないということになるわけです。

ついでに書いておけば、首相の靖国神社参拝も、「政教分離」には反しません。神道の教義を前提とした法律を作ったり、国民に神道の信仰を強制したら違反ですが、誰がどんな肩書きで参拝しようが、それだけならまったく問題ありません。
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